黒沢ビルの歴史

上野仲町通りにひっそりと建つ、昭和モダンテイストを取り入れた西洋建築。
戦火を逃れ、ゆかりの人々に大切に守られ、現在までその姿を残している黒沢ビル。
紹介文は、日本を代表する建築写真家増田彰久先生に『黒沢ビル(旧・小川眼科病院)』を西洋建築という観点から評価していただき、
ご寄稿いただきました。

  黒沢ビル(旧・小川眼科病院)

日本のステンドグラスの始まりは西洋から輸入した色ガラスを木の枠にはめて造った素朴なものだった。明治政府は建築技術を学ばせる留学生や研修生を欧米各国へ派遣したが、その一人として宇野澤辰雄が明治19年にドイツへ渡った。技術者である彼はおよそ3年間ステンドグラスの製法を学んで日本へ帰ってきて、工房をつくり日本の近代建築にステンドグラスを入れた最初の人となり、宇野澤辰雄は「ステンドグラスの祖」と呼ばれ多くの弟子を育て日本のステンドグラス界に大きな足跡を残した。

宇野澤が明治44年に亡くなると、そこで主役が交代するように、小川三知が表舞台に現れた。彼は有名な静岡藩医の次男として生まれが、長男の早世により父の願いに答え一時は医者をめざすが、幼い時から好きな絵画の道へと転進する。そして家督を弟、剣三郎に譲ることで、当時、誕生したたばかりの上野の東京美術学校に入学し、岡倉天心から「君は日本画の手ほどきを橋本雅邦先生から受けなさい」といわれ充実した幸せな学びの時を過ごした。

その後、新しい絵画の世界を求めて渡米してシカゴの美術院を経て、ふとしたきっかけからアメリカの幾つものステンドグラス工房を巡り、当時、最先端のアメリカ式のステンドグラス技術を習得して帰って来た。小川三知スタジオを立ち上げ、日本初の「ステンドグラス作家」となり、大正期のステンドグラスの牽引役となった。

ぼくは今まで全国に残る戦前のステンドグラスを約600点、撮影してきたが、三知の手による物は、どれもが淡い中間色が多用され大変に落ちついた日本的な色と図柄が面白い。室内にいても外の自然の移ろいが感じられ、自然と仲良く暮らそうという日本人の生活に馴染んでいる。世界に誇る日本独自のステンドグラスを誕生させたのである。

上野仲町通りに建つ旧小川眼科病院の白亜のビルは正面1階の玄関入口の壁に鉄平石張られ、その上の階には尖塔アーチの窓、そして3階の窓の庇には幌状の膨らみのある、もっこりとした窓庇がある。当時、流行していたドイツ表現派のデザインがいち早く取り入れられている。昭和はじめのモダンな雰囲気が漂っている「町の名建築」である。玄関入口の欄間には「鶏鳴告暁」が後方には「立葵」ステンドグラス。小さな応接室にも梅や流水の黄セキレイ、植物文様入りのランプシェードなど多くのステンドグラスで埋め尽くされている。どうして三知の作品がこんなに多いかというと家督を継いでもらった弟、小川剣三郎の病院だからではないか。好きな道に進んだ三知の気持ちが、判るような気もする。

当たり前のことだがステンドグラスは基本的に平面のものである。ところが三知の作品には遠近感や立体感やリズム感がある。どうしてこんなことが出来るのか。どこに秘密があるのか。大型カメラでピントグラス覗きながら気が付いたことだがステンドグラスの素材であるオパルセントグラスから図柄にあったグラデーション部分の選び方切り取るのが見事である。例え「鶏鳴告暁」は鶏を見てもらうと判るがまるで羽が筆で絵を描いたように凄い。植物でもこの葉が前でこれは後ろまで判る。ガラスの選びは天才的である。

美校時代の日本画で芸術の基礎を学び、11年におよぶ米国での技術の習得が絵画性の強い「日本のステンドグラス」を誕生させたのである。

増田彰久氏プロフィール
1939年、東京生まれ。写真家。 兵庫県立芦屋高校、日本大学芸術学部写真学科を卒業。 大成建設を定年で退職後、増田彰久写真事務所を主宰。 日本写真家協会、日本写真協会、日本旅行作家協会会員。早稲田大学講師。
三十数年にわたり明治・大正・昭和戦前に建てられた日本の西洋館を撮り続ける。第33回日本写真協会賞年度賞、第9回伊奈信男賞、2006年度日本建築学会文化賞などを受賞